「 千葉の海の思い出 」
登戸で生まれ、現在は市川市在住のTさんの同人誌に掲載された文章です。
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私は今の住所でいうと、
千葉市中央区登戸という町で生まれ育ちました。
国道14号線を市川から向かうと、
「そごう」や「千葉市役所」などがある
千葉市の都市部に入る少し手前なのですが、
左手に小高い丘が続いている場所がありますよね。
私の住まいはその丘の一画にありました。

今、国道とその高台を結ぶ坂道に立つと南側に
「幸町マンション」と呼ばれる
巨大なマンション群や銀行などのオフィスビルが見渡せ、
地図と見るとまさに千葉市のど真中だなぁという気がします。
しかし、一昔前、この場所は東京湾の海に面し、
水面はキラキラと光輝いていたということは、
もう遠い過去の話として忘れ去られようとしています。
特に、近年そこへ移って来た方たちには
想像出来ない話であるかも知れません。

家から歩いて数分、
松林の間を縫う急な坂道を下ると国道が走り、
そこに海がありました。
当時は、国道沿いの住人は漁民が多く、
海苔やあさり、蛤を採り生業をたてていました。
私の家の周囲でも、路地路地には干からびた
小魚が付いたままの魚網が横たえられ、
垣根の前には海苔をしいた簾が並び、
いつも海の臭いが漂い、
逞しい男がふんどし一つで行き来していたものでした。

シーズンには、最寄りの京成電鉄の駅…
(今は「京成西登戸」という駅名でしたが、
昔はその名もずばり「千葉海岸」という駅名でした)
…から、海辺まで色とりどりの貝やほおずき、
浮き袋やあさり採りの熊手、
魚採りの網を売る店がズラリと並び、
朝から訪れる海水浴客の流れが
途絶えることがなかったのでした。
海には「海の家」が並び、
海は人の声がよく通りますから、
あちこちから子供の嬌声がこだましていたものです。

海は私たち地元の子供たちの遊び場です。
砂浜に放置されている廃船でかくれんぼしたり、
落とし穴を掘ったり、流木でチャンバラをしたり…。
そして、もう一つ海は
私たちの恰好の食料調達場所でもあったのです。
学校から帰ると私たちは直ぐに海に下り、
漁師の怖いおじさんの目を盗んで
禁漁区からはみ出たあさりや蛤を拾い集め、
長靴の中に隠しこんで持ち帰りました。
また、小魚を手づかみし、
少し深いところに行くとワタリガニが
足に爪を立ててくるのですが、
そんなものを採ってくるのでした。

潮が引けば当然海底が露出するのですが、
その土中にはシャコがいました。
シャベルで表面を薄く削ると、
親指大の穴があちこちに出てきます。
これはシャコの住みかなのですが、
その穴からシャコをおびき出して捕獲するのです。
おびき出す方法はいろいろありますが共通しているのは、
中に潜んでいるシャコを挑発し、
入口まで誘い出すというもので、
指を突っ込んで指先を動かしてみたり、
棒を入れてみたり、
一番いいのはすでに捕獲した仲間のシャコを
頭から潜らせてやる方法なのですが、
こうすると中にいるシャコは
「ワシの住みかに何すんねん」と出てきます。
初めはヒゲがのぞき、そしてハサミが出てきます。
そこを素早く釣り上げるのですね。
釣り上げるとビシャビシャ跳ねますが、
つまり新鮮なんですね。
これが大漁の時はバケツ一杯も採れました。
ウチに帰って真っ赤に茹でて食べたものです。
貧乏でしたけど栄養は満点の毎日でした。

「海の家」はオフシーズンでも住民の寄り合い場で、
路地の電柱に「力道山とシャープ兄弟」の
テレビ中継案内なんか張り出されると、
大人も子供も5円玉握って集まり、「
締めろ!」「殺せ!」の大騒ぎ、
秋祭りの夜は酔った大人たちが歌う猥褻な歌に手拍子合わせ、
ウチに帰って意味も分からぬまま
大声で歌って母親に蹴飛ばされたものです。

国道14号線の位置は今と変わっていません。
従って今でもその場所を通るときは、
当時のことが偲ばれるのですが、
台風の季節には押し寄せる大波が轟音とともに国道まで覆い被さり、
強風に飛ばされた海砂や小石が高台まで吹き付けていました。
子供たちは、その自然の猛威をわざわざ見に行ったもので、
当時の普段着はランニングシャツにパンツだけなので、
素肌に砂利がもろに当たり、
「イテー、イテー」と小躍りして楽しんでいました。

私の子供の頃は、未だ敗戦の名残りがあって、
木更津に駐屯地があったせいか
海にいると米軍の戦車や車両が長い隊列を組んで
国道を移動する光景がしばしば見られ、
「昼でもヘッドライトを付けて走っている時は
軍事行動中だから轢かれても文句は言えないのだ」
などと大人から忠告されていました。
小銃を抱え戦車の上に
無造作に腰掛けている黒人兵を見たのもこの時期でした。
しかし、人の話に、米兵からガムを与えられた
という話を聞くんですか、
私はそのような経験はなく、唯、不気味なキャタピラの音と、
戦車の巨大な砲身がもしかしたら次にはこちらに向けられ、
そして「ドカン」と撃たれるのではないかという恐怖を抱いて、
見つめていた記憶があるだけです。

千葉海岸は遠浅で、
潮が引くと数km先まで服を着たまま歩いて行ける海でした。
引き潮のときには、所々の窪みにハゼやカレイ、
小さなサメまでが取り残され、
剥き出た地表には無数のカニやヤドカリが歩き回っていました。
人はそれらの生き物に誘われて沖へ沖へ歩を進め、
気が付いて振り返ると陸地はいつの間にか彼方に遠ざかっているのです。
私たちは経験から潮が上げてくる微妙な変化を知っていました。
カニの住みかから「ブクブク」という音とともに海水が溢れだし、
それが小さな流れとなって足下を濡らす時が
上げ潮に転換する合図でした。

しかし、都会からやってきた海水浴客には
その微妙な変化を捉える知識はありません。
今のように情報も徹底されていないし、
「海の家」の人たちもいちいちそんなことを告げません。
おまけに彼らははるか沖合いまで歩いて来る途中に
幾つかの澪(みお)を越えて来たことを
ほとんど意識していなかったでしょう。
それが悲劇を生みました。

澪とは小型の漁船が沖合いに出るために
作られた通路のことで、
幅は4〜5メートルはあったでしょうか。
深さは一番深いところで1〜2メートル程だったかも知れません。
遠浅の海を満喫し、潮が満ち始め、足首が海水に沈む頃、
彼らはようやく帰り支度を始め、岸に戻り始めます。
当然のことながら、上げ潮になると
海水は真っ先に周辺より溢れたこの澪に流れ込みます。
つまり、澪に海水が満ちた頃でも周辺はまだ陸地なのですね。

両手にぃっぱいの貝やヤドカリを入れた袋や浮き輪を下げ、
直射日光に焼かれて疲れ果てた彼らは、
行く手をさえぎるこの澪に足を踏み入れ、
その深さに一瞬たじろぎます。
でもそれはわずかな幅。直ぐ向こうはまたカニが這う浅瀬。
かれらは意に介さず澪に足を踏み入れます。
しながら一歩進むたびに足は深みに引きずり込まれ、
やがて深さは大人の胸ほどに達し、
幼い子供まで足が着かない状態になります。
おまけに川と同じように澪の底は流れ込む海水で渦巻いていますから、
たちまち足をすくわれるのです。
私たち地元の子供ですら、
何回か危険な目にあつたこともあるこの澪で、
都会からやってきた人たち、特に幼い子供たちが溺れました。
むしろをかけられた浜辺に横たえられた「ドザエモン」を、
私たちは一夏で何体見たことでしょうか。

小学校の高学年頃から、転校生が増えてきました。
川崎製鉄所が千葉に進出してためです。
そろっておかっぱ頭の地元の女の子のなかに、
ある日突然、長い三つ編みにし、
色白で清楚な服を着た女の子が現われました。
いがぐり頭に日焼けしたどす黒い顔のなかに、
坊ちゃん刈りの見るからに知的な少年が現われました。
ずば抜けて勉強のできる男の子に憧れる女の子、
早くも膨らんだ胸をポカンと見つめる男の子。
私たち地元の子供たちの周辺にも
都会の文化がヒタヒタと訪れてきました。

「デカイ船が来るって、身に行くべ」ある日、
川鉄の港に船が入船するとのふれこみがまわり、
人々は岸壁に集りました。
皆が目を凝らす遥かかなたの
水平線に陽を背にしてポツンと黒い点が浮び上がり、
それがみるみる大きくなって、
やがて進路を変えたのか、
横向きになり私たちに大きな船体を見せて船が入ってきました。
今までに見たこともない巨大な船でした。
「うぁ、でけえなぁ」と歓声を上げる子供たち。
しかし、集った大人たちはだまったまま、
ただ沖を静かに進む船を見つめ、
やがて一人二人とうつむいたまま散っていったのです。

その日を境して千葉の海岸は急速に汚れ始めました。
油が波間に漂い、海に入れば足の裏や体にこびりつき、
そして魚の死骸が打ち上げられました。
つい先頃まで足下から蜘蛛の子を散らすように
動いていたカニの数がめっきり減り、
借り主のいないヤドカリの抜け殻が転がっていました。
打ち寄せる波頭はくすみ、「もある」は消えました。

それから数年間、
海水浴客が訪れることもなくなったこの町には
建築資材を満載した工事用重車両が砂塵を巻き上げて走り回り、
みるみるうちに千葉海岸の海は生き物とともに
瓦礫に埋め尽くされたのでした。
今まで聞こえていた規則正しく打ち寄せる波の柔らかい音は
日に日に遠ざかり、
変わって、基礎杭をたたき込む金属音が響き渡り、
みるみるうちに文化住宅と呼ばれるマンションが
聳え建ち始めたのでした。

あれから間もなく半世紀。
「稲毛の浜」や「幕張の浜」など幾つかの場所で
人工浜と呼ばれる千葉の海が再現されていますが、
私たちが子供の頃に過ごした幸多い故郷の海には及ぶべきもありません。
NHKのBSで「21世紀に残したい日本の風景」という
視聴者参加番組を放送しているのはご存知でしょうが、
私は「21世紀に残したかった…」ものとして
千葉の海を推薦したいと思っています。

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